昭和43年6月3日 夜の御理解
お詫びを申し上げる事は限りなと多いと同時にお礼を申し上げることの限りない事に驚いてしまうばかりですね。
最近、自分以外のことについての信心、自分だけの信心から少しでも自分の周囲のことが祈れるようなという夢の中に、まあ天下国家のことに至るまで、本当にこの、いうなら、天下国家のことを祈りますとね、世界真の平和とか、または、世界総氏子の身の上安全といったようなことを祈りますけれども、いわゆる、その内容にどのぐらいお詫びを申しあげねばならないことなのかと言うことを思いますと、やはりその願いと同時に天下国家のことに至るまでこれは気付いたもの、分かった者が詫びていかなければならんと言う風に思うんです。
同時に私は今日は、このお礼を申し上げること、ね、何も知らずにおかげを頂いてきておる、例えば、アメリカの飛行機が福岡に落ちたと、新聞やテレビなんかで騒いでおりますね。本当に、あの、まあそういう不祥事があると同時に、まあ、いろんな基地の問題なんかが今度は、( ? )されてるらしいですけれども、それもそうですけれども、そういう前に、私共が日にちおかげを頂いておるということ、これはまた天下国家のことに至ってです、本当にまあ、なるほどあそこに戦争があったり、ここに不幸なことが起こったり、それはたくさんそのこともありますけれども、そのところだけを、言い争いに聞かずにね、もう本当に平穏無事でおかげを受けておるほうこおとのぐらい、なら世界中の中にでも多いか分からない、そのお礼の足りないことのお礼を今日は一日、もう心の中に思わせて頂いたという一日でしたが、今日は何か、そういう、例えば今まで自分とか自分一家に対するお礼とか、お詫びとか、また、願いの信心が段々こう範囲が広うなって、お願いだけではない、やっぱり、詫びるところを、代わって詫びると、( ? )は代わってお礼を申し上げるといったような一日でしたがね、もうそれが、とにかく有り難い、まあ、私一日を有り難い雰囲気と有り難い心で支えて頂いたと言う感じが致します、ね。
ですから、例えば、困った事が起こってまいりますと、いうなら、その、本当にその難儀な問題から、それをいかにしてその難儀を少なくしようかとか、難儀がないようにという願いのではもっておりますけれども、その、でなかっ、ないところのお礼の足りないと言う事を、こう今、個人の上にも感ずるけれども、天下国家のことの上についてもそれを感じる。ね。
これは、やっぱり、お道の信心でも頂いて、本当なことが分からせて頂くものが、やはり、ね、世界真の平和、または総氏子の身の上安全を祈る願うと同時に、その祈りの内容としてです、やっぱり、お詫びする所は詫びていかなければならない、同時にお礼が足りないところを私が替わってお礼を申し上げなければならない。ね。
そこで、ただ口で願うとか、祈るとかということではなくてですね、もう本当に有り難いですね。
今日も私、久留米から参ってみえられる、お父さんが伊万里のほうに兄弟8人あるのに、自分がここに、唯一ここに、一番遠い所にあって親孝行も出来んから、まあ、信心でもして親のことを祈って親孝行の( ? )でもしたいとこういうて、その、毎日、最近参ってみえるんですよね。
ちうことは、あの、私は神様にお届けさせて頂いとりましたら、あの、( ? )一つつつんでは父のため、二つつつんでは母のため、であれを頂くんですよ。ね、それはそばにおる、市内におる人たちは7人の兄弟が全部の市内におられるそうです。ところが、久留米についてみえられて、その、おられる人は、まあ、側で( ? )さすったりできんから、親の為にせめて信心でもさせて頂こうという気になってから、まあ、おかげを頂いておられるな訳ですけれどもね。
ですから、その、例えば、んなら段々お互いの祈りというものが行動になっていく、広い、または深い祈りが出来るようになる、なら、世界、自分のことが祈れる、天下国家のことが祈れれる、または、お礼が申し上げれる、お詫びがなされる、そういうようなその、お礼がなされると言う事のない、その、内容がね、やはり一つつんでは、やはり社会のため、二つつんでは世界総氏子のためというものがです、これはみんなお礼を言う事も詫びる事も知らない者がまだいうならほとんどである。
それをお詫びの印に、ね、世界天下、国家の上の事の上におかげを受けておるという、それは不祥事もたくさんあるけれども、おかげを受けておるということのほうが多い、そのおかげを受けておる印にといったようなものをですね、あの、自分の信心の修行に現していくことになりますとですね、本当に不思議な事になってくるんですよね、いわゆる、心がね、その、有り難くなってくるんです。
最近、いつも昼休ませて頂くんですけれどもね、今日はなんかそういうように、その、本当にあの、世が天下国家のことを祈り願っておる人があっても、お礼を言うておる人は少なかろうと思うて、そのお礼のことが心の中にいつもありますとですね、今日は眠ろうと思うても眠れんほどに今日は有り難かったです私は、ね、まあ、夕方ちょっとテレビ室で眠うなりましたけれどもですね、はあー、本当に眠いとかね、きついとかということでも心から有り難いとか、または相すいませんとかと言う時にはですね、やはり、そのぐらいなものはやっぱあるです、頂けれると、ね、そこに、例えば私の、言うなら、助かりがあるようにですね、それが段々その祈りの内容というものが行動にいけば行くほどにですね、それがこう、よけい、その、これはもう言葉の表現が出来ないほどのものですけれどもですね、うん、世界中のことをお礼が申し上げておる、お礼不足のところをお詫びをしておるといった、体はないかもしれませんけれども、とにかく心の中にとにかく有り難いものに支えられどうしというものを実感いたしました。ね。
ですから、私共が詫びたり、お礼を申し上げたり、お礼を願ったりするその内容として、やはり、一つ積んでは父のため、二つ積んでは母のためというように、願うならば願う事に対する私は修行がなんとか心がけなければならない、そうすると神様がですね、もう嬉しゅう有り難うできれる修行をですね、させて下さるようなもんですよ、今日はそんなことを私は感じましたですよね。
本当にみなさん願う事はみんながだいたい願ってるんですよ、ですから、お詫びの事やらお礼の事やら、これはもういよいよ、お詫び不足、お礼不足ということを感じます。
私共が詫びなければ、お礼を申し上げなければ、もうお礼を申し上げるものがない、それでは、ますます、天地に対してご無礼が重なってくるように思うですね。
どうぞ。
2005年4月12日
末永静行